【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第216回  サッカー・杉山隆一

2014年 11月 26日

 「アルゼンチン戦の得点は、半世紀がたったいまでも鮮明に覚えています。左から中央に切れ込み、相手のペナルティーエリア左角付近で右足を振り抜きました。練習で繰り返していた得意の形だったので、うれしかったね」
 50年前の1964年東京五輪をこう振り返るのは当時のサッカー日本代表、杉山隆一。アルゼンチン戦は駒沢競技場で行われた日本の初戦。そして鮮明に覚えているという得点は同点ゴールとなる日本の1点目だった。この試合、日本は南米の強豪を3-2の逆転で下す。杉山は試合後、アルゼンチン側から「20万ドル(当時1ドル=360円、約7200万円)で、連れて帰りたい」と言われたという。「20万ドルの左足」と称されるようになる理由だ。まさに歴史的勝利だった。
 この大番狂わせから遡ること4年弱。1960年11月、後に「日本サッカーの父」と称されるデットマール・クラマーが初来日を果たす。以降、日本では自国開催となる東京、続くメキシコ五輪に向けた研鑽の日々が始まる。杉山は苦笑いとともに当時を振り返る。「1960年にクラマーさんが来て、初めてボールリフティングを見たんですよ。いま考えたら笑っちゃう。サッカーの基本を代表合宿で初めて教わったんだからね。基本的な蹴り方も教わりました。クラマーさんは『これが代表選手なのか』とびっくりしたでしょうね」―。
 1941年7月4日生まれ、静岡県出身。中学時代からサッカーをはじめ、清水東高時代に国体で優勝。19歳で日本代表入りし、明治大在学中に東京五輪を迎えた。俊足を生かし、アルゼンチン戦に続くガーナ戦でも1得点1アシストの活躍を演じた。試合は2-3で惜敗したが、D組2位で準々決勝に進出し、チェコスロバキア(当時)に0-4で敗れはしたが、8強という好結果を残した。
 そして、この東京五輪から銅メダルに輝いた4年後のメキシコ五輪まで、多くのメンバーが残ってチームは成熟していく。杉山は「東京でアルゼンチンに勝って、『自分たちにもできる』と自信をつけた経験は大きかったんでしょうね。同じ顔ぶれで連携を磨くこともできました。振り返ると、東京五輪はメキシコで表彰台に立つための大きな通過点だったですね」。
 メキシコでも、杉山は5アシストを記録するなど、チームを支えた。大学卒業後は三菱重工で活躍。1969、1973年と2度の日本リーグ優勝などにも貢献した。1974年に現役引退し、請われてヤマハ発動機監督に就任。静岡県リーグ2部チームを日本リーグ1部に押し上げ、現在のジュビロ磐田の基礎を築いた。その後も後進の指導、競技の発展に寄与、現在も静岡県サッカー協会副会長を務めている。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第215回  柔道・岡野功 

2014年 5月 28日

 事実上の決勝戦と見られていたのが準決勝の金義泰(韓国)戦だった。1964年東京五輪。この大会から正式競技となった柔道の中量級(80キロ以下)には20選手が参加した。岡野は準々決勝まで危なげなく一本勝ちを続け、そして迎えた準決勝。右の組み手をしっかり取ると、連続で得意の背負い投げを繰り出す。序盤から攻めに攻めたが、4月に痛めた右膝負傷の影響もあってか、決めきれず、判定にもつれ込んだ。それでも終始攻め続け、小外掛けで相手を横転させての優勢勝ち。決勝で対戦したホフマン(西ドイツ=当時)からは横四方固めで一本勝ちを収め、期待通りに金メダルに輝いた。
 1944年1月生まれ、茨城県出身。竜ヶ崎一高から中大法学部に進み、在学中に東京五輪を迎えた。柔道を始めた動機の一つが「ケンカが強くなりたいから」とも。初めて買ってもらった柔道着を宝物のように大切に扱ったという。穴があけば、つぎあてをし、寝るときには枕元に置いた。道場に通う子供はみなそうだった。そういう時代だった。
 柔道の魅力を知り、才能を開花させていった少年は、小さな体から繰り出す切れ味鋭い一本背負いが武器。五輪を迎える頃には「昭和の三四郎」とも呼ばれた。技の切れ味ばかりではない。自らを冷静に分析することもできた。五輪前に負傷した右膝を抱えて大舞台に臨むことを考え、寝技を重点に練習を積んだ。それが狙い通りに五輪の決勝で生きた形だった。
 翌1965年、岡野は初めて体重別で行われたリオデジャネイロ世界選手権の中量級でも圧勝。すでに、この階級では国内外に敵はいなくなっていた。そして当時は、無差別級こそ柔道―という思考が色濃く残っていた時代。体重別で行う五輪などとは違い、体重無差別で争う全日本選手権が世界一を争う舞台とも見られ、いま以上に注目を浴びていた。中量級に敵がいなくなった岡野にとっても目標はそこになっていた。
 金メダルを獲得した五輪から3年後、1967年の全日本選手権を制覇した。身長171センチ、体重78キロの体で無差別級王者に。まさに柔よく剛を制す―だった。体さばきとタイミングで一本背負いを繰り出し、大型選手を撃破した。2年後の1969年にも再び全日本の頂点に立つ。そして引退。引退後は道場を設立し、各大学で師範を務めるなど、後進の育成に尽力した。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第214回 水泳・ベルリン五輪競泳男子800メートルリレー

2014年 4月 30日

 エース萩野公介(東洋大)の台頭をきっかけに、競泳男子自由形を重点強化中の日本。中でも800㍍リレーはその国の自由形の実力が反映されるだけに、注目種目となっているが、以前は男子自由形、そして男子800メートルリレーが「お家芸」と呼ばれた時期もあった。
 1936年ベルリン五輪。大会11日目に行われた男子800㍍リレーはまさに圧巻だった。メンバーは1915年1月生まれの21歳、遊佐正憲(香川県出身)、1916年1月生まれの20歳、田口正治(京都府出身)、やはり1916年8月生まれの新井茂雄(静岡県出身)、そして1917年5月生まれの19歳、杉浦重雄(静岡県出身)の若手4人。このうち、前回五輪で同種目を経験していたのは遊佐だけで、他の3人は五輪の舞台に立つのも初めてだった。それでも期待が大きかったのは、遊佐と新井が100メートル自由形の優勝候補にも挙げられるほどの実力の持ち主だったからだ。
 期待が大きく膨らむ中、第1泳者の遊佐がスタートよく飛び出し、第2泳者の杉浦もその勢いをつなぐ。そして第3泳者の田口から、アンカーの新井にリレーしたときには独走状態で、注目は金メダルの行方ではなく、タイムに注がれていた。歓声の上がる中、2位米国に15メートルもの大差をつけてゴール。前回1932年ロサンゼルス五輪で日本がマークした世界記録8分58秒4を、7秒近くも更新する8分51秒5の世界新記録で五輪連覇を達成した。
 驚異的な記録の誕生には、伏線があった。800メートルリレー同様、前回ロサンゼルス五輪で金メダル(宮崎康二)に輝いていたのが100メートル自由形。この大会では当然、日本勢2連覇の期待がかかっていた。だが、思わぬ形で足下をすくわれてしまった。田口も含めて3人が進んだ決勝。日本勢同士で意識し合ったのか、伏兵のチック(ハンガリー)に金メダルをさらわれ、0秒3差の57秒9で遊佐が銀メダル、銅メダルに新井、そして田口は4位に終わった。「水泳ニッポン」としては、800メートルリレーは、優勝を逃した100メートルの雪辱の舞台でもあったのだ。
 800メートルリレーは、戦後も日本のお家芸として継承され、1952年ヘルシンキ五輪で銀メダル、1960年ローマ五輪でも銀メダル、1964年東京五輪では銅メダルを獲得している。だが、その後、男子自由形は世界のパワーの前に水をあけられ、メダルを獲得できない状況が続く。復活が待たれる。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第213回 アーチェリー・道永宏

2014年 4月 23日

 何が起こるか分からないのが五輪。とはいってもアーチェリーでメダル獲得を予想した者など当時はいなかったに違いない。1976年モントリオール五輪でのことだ。
 前回1972年ミュンヘン五輪で52年ぶりに復活したアーチェリー。このミュンヘン大会での日本選手の最高成績は17位だっただけに、4年を経たとはいえ、男女各2人の代表のうち、1人でも入賞してくれれば、「御の字」というのが関係者の本音だった。というのも、4人のうち3人までが国際大会の経験がなかったというのだから、メダルを期待する方が無理というものだった。
 そんな周囲の予想を大きく覆したのが、同志社大2年、19歳の道永宏だった。初の国際試合が五輪だったにもかかわらず、度胸満点のプレーを披露して快挙を達成してしまったのだから競技関係者もさぞや驚いたことだろう。
 競技は7月27日から4日間の日程で行われた。道永は初日に3位につけると、得意とした50メートルと30メートルが行われた2日目も3位をキープ。3日目は苦手の90メートルと70メートルだったが、正確に的を射抜き続けて2位に浮上した。迎えた最終日。「怖いもの知らず」の道永もさすがに重圧に押しつぶされそうになったというが、勢いは止まらず、そのまま逃げ切り、銀メダルに輝いた。
 1956年10月生まれ、神戸市出身。両親がともにアーチェリー選手とあって、4歳の頃からアーチェリーに触れて育ったという。もっとも中学時代は体操部で、本格的にアーチェリーを始めたのは高校入学後。それも高校にはアーチェリー部がなく、神戸アーチェリークラブで練習に励んだ。練習に明け暮れた日々、いつしか「練習量は日本で一番」という自信が自らを支えていた。神戸市でアーチェリー用具店を経営していた元世界選手権代表の父の指導も大きかった。
 日本初のアーチェリーでのメダル獲得の瞬間を見守ったその父は、号泣。その横で道永の笑顔は輝いていた。「日本人は腕力がない。これを補ってくれたのが父です。家の近くの90メートルの射場でよくしごかれたものです」と道永。父子でつかんだメダルでもあった。道永は、大学卒業後も競技を続け、1980年モスクワ五輪を目指したが、日本の不参加が決まり、競技の一線から退いた。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第212回 陸上・渡辺康幸

2014年 4月 9日

 まさに〝スーパーエース〟と呼ぶにふさわしい活躍だった。箱根駅伝では、いきなり大学1年から花の2区に抜擢され、総合優勝に貢献。2年は1区で区間新(1時間1分13秒)を、3年では2区で区間新(1時間6分48秒)を叩き出した。「とにかくモノが違う」とは早大OBの名ランナー、瀬古利彦の評だ。4年でも2区で8人抜きの激走を披露した。華やかな世間の注目を浴び、早大の渡辺康幸は走り続けていた。
 当時の代名詞は「有言実行」。瀬古の持つ1万㍍日本学生記録(27分51秒61)の更新も公言していたことの一つ。大学4年の世界選手権予選で27分48秒55をマークし〝瀬古越え〟を果たすと、後日、「絶対の練習をして絶対の自信があったから言うんです」と語っている。
 若き天才ランナーは将来、マラソンで世界の強豪と勝負する青写真を描いていた。ただ、この道は真っ直ぐ栄光に向かってはいなかった。
 まず大学3年の3月、びわ湖毎日でマラソンデビューを計画した。しかし、風邪と花粉症でコンディションを崩し出場を見送るはめに。挽回を期した翌年2月の東京国際。アトランタ五輪男子マラソンの代表選考レースの一つだったが、ここでも欠場。レース前日の練習で左太ももに肉離れが発生したのだ。スタートにすら立てない状況に「僕がこのまま終わるような選手だと思ってほしくありません」。無念の涙がほおを伝った。
 幸い故障は軽く、わずか3週間後のびわ湖毎日に強行出場。だが、先頭集団に付けたのは35㌔すぎまで。そこから後退し、2時間12分39秒の7位。五輪切符は露と消えた。「意識が朦朧として前が見えなかった。足に来た」。簡単に勝てるほど42・195㌔は甘くなかった。
 大学卒業後はヱスビー食品で競技を続けたものの輝きは戻らなかった。慢性的な左アキレス腱の痛みが癒えないまま2002年、引退。「走る意欲、向上心をなくしてしまった」。フルマラソンは、あのびわ湖毎日が唯一の完走レースとなった。
 現在は母校・早大の駅伝監督として指揮を執る。就任当初こそシード落ちも経験したが、2010年度には箱根駅伝で総合優勝に導き、出雲、全日本と合わせ大学駅伝3冠を達成した。栄光も挫折も知る、かつての〝史上最強の学生ランナー〟は「やはり日本人のスターが出てこないとね」と語る。箱根を、そして世界を目指す戦いは、指導者に立場を変えて続いている。=敬称略(志)※記録は全て当時


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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第211回 車いすバスケットボール・京谷和幸

2014年 4月 2日

 かつて将来を嘱望されたサッカー選手がいた。京谷和幸。高校時代、全日本ユース代表に選出されたミッドフィルダーだ。悲劇は1993年11月、ジェフ市原でプロデビューを果たした1週間後に起きた。乗用車を運転中、脇から出てきた車を避けきれず、電柱に激突。気が付くとベッドの上で点滴の管を付けていた。
 2カ月後、医師から一生、車いすだと告げられた。下半身不随だった。事故後、交際していた陽子さんの強い勧めで、宣告されたときにはすでに結婚していた。彼女は歩けなくなることを知っていたのだ。事実を突きつけられた京谷に、新妻は「2人なら乗り越えられるよ」と言ってくれた。なぜか頭に来た。「お前に俺の気持ちが分かるか。いいよな、お前は泣けて、俺は悲しすぎて涙も出ねえよ」。当時22歳。気持ちのやり場が見つからなかった。
 1人になったら泣けてきた。夜通し泣いて涙が枯れ、空腹に気付いた。「俺には食べ物を買ってきてくれる人がいる」と思った瞬間、妻の言った「2人なら」の意味が染みた。「落ち込んでいられない」。翌日からトレーニングを始めた。負けず嫌いを地でいく男は、1年半以上掛かると言われるリハビリを8カ月でクリアし退院した。
 車いすバスケットとの出会いは、陽子さんが障害者手帳の交付手続きに行った役所で、窓口担当をしていたクラブチームの指導者に誘われたのがきっかけだった。初めて練習に行った時、京谷は「こんな真似はできない」と思ったという。腕だけで車いすを漕ぐのもきつかったが、もっときつかったのは止まることだ。走っている車輪を素手で止めると、手の皮がベロリとむけた。
 だが、これも練習を重ねることで克服。ガードのポジションでサッカー仕込みの攻撃センスを発揮し、頭角を現していく。パラリンピックの代表を意識するようになったのは、人工授精で授かった長女の存在が大きかった。「この子が誇れる父親になりたい」。サッカー選手だった頃は自己中心的だったと反省し、欠点を全て捨て去るつもりで臨んだ。そして、シドニー、アテネ、北京と3大会連続でパラリンピックに出場。北京では日本選手団の主将も務めた。
 両足の自由は確かに失った。ただ、それを乗り越えた先で得た「充実感」は、とてつもなく大きく深かった。「家族がいて、夢中になれる車いすバスケがある。もう、仮に医学が発達して足が治るとしても、このままでいい。今の自分が好きなんです」=敬称略(志)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第210回 大相撲・高見盛

2014年 3月 26日

 歓声が降り注ぎ、座布団が乱れ飛んだ。勝ち名乗りを受ける時には叫んでいた。
 「勝ったのか、俺。勝ったんだ」
 平成15年名古屋場所、西前頭3枚目の高見盛(本名・加藤精彦)は横綱朝青龍から金星を奪ってみせた。相手の強烈な張り手にひるまず、得意の右差し。かいなを返して寄り切る完勝だった。14年に及ぶ現役生活で、思い出に残る取組に挙げたのが、この一番である。
 昭和51年5月12日、青森県板柳町でリンゴ農園を営む家の3男として生まれた。小学4年生のとき、大柄だった加藤少年は担任教諭に相撲を勧められた。一度は断ったが、「入部したら好きなだけ給食を食べさせてやるぞ」の口説き文句に首を縦に振った。中学高校と全国制覇。日大ではアマチュア横綱に輝いた。「人生は一度。どうせならとことんやってみよう」。それまで考えていなかったプロへ。東関部屋の門を叩いた。
 11年春場所、幕下付け出しで初土俵を踏んだ。転機は西前頭7枚目で迎えた12年秋場所だった。3日目の取組で右膝前十字靱帯を断裂してしまう。「ブチブチと音がした」。目の前が真っ暗になった。途中休場に全休2場所。番付は幕下まで落ちた。
 少しずつ体を戻し、1年半かけて、ようやく幕内に戻った14年春場所。土俵に上がると足が震えた。「幕内は、十両と雰囲気が違った。土俵に上がるのが恐くてどうしようもなかった」。無意識のうちに自分の顔面を思い切り殴っていた。最後の仕切り前、気合注入の〝儀式〟は、こうして生まれた。
 自らを奮い立たせながら取り続け、古傷の右膝や右肩などが限界に達した25年初場所限りで引退。年寄「振分」を襲名した。
 東関部屋の稽古場には傾いた鉄砲柱がある。通常、鉄砲柱には、押しの基本である「脇を締めて腕を前に押し出す」動きをするものだ。しかし、高見盛は得意の右差しを磨くため、入門以来、鉄砲柱に右肩から当たる動作を繰り返してきた。そのため、かしいでしまったのだ。技術の修得について「教えればできるというものではない。毎日やるという気迫がなきゃ、できない」と語る振分親方。次の夢は「多くの日本人力士を誕生させて若貴ブームのような大相撲人気を復活させること」だという。=敬称略(志)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第209回 スキー・ジャンプ 葛西紀明

2014年 3月 19日

 「今までの(競技人生の)全てが詰まっている」―。メダル授与式で葛西紀明はこう言って顔をほころばせた。1992年アルベールビル大会から7大会連続で五輪に出場し、追い求めてきた個人種目でのメダル。2014年ソチ五輪ノルディックスキーのジャンプ男子ラージヒルでようやく銀メダルに輝いた。冬季五輪での日本勢最年長メダルであり、日本勢のジャンプでの表彰台は1998年長野五輪以来16年ぶりの快挙でもあった。
 1回目に最長不倒タイの139メートルを飛んで2位につけると、2回目も133・5メートルをマーク。合計277・4点は優勝したカミル・ストッホ(ポーランド)に1・3点差だった。「もう少しで金に届きそうだった。6対4で悔しい」と語ったが、2回目のジャンプを終えると、ほかの日本メンバーたちが駆けつけて祝福。ともに喜び合った。
 「(団体銀のリレハンメル五輪は)みんなでうれしさを味わった。きょうは独り占めで本当にうれしい」という言葉に実感がこもる。ここまで長い道のりだった。悲運のエースとも呼ばれた時期があった。高校1年からワールドカップ(W杯)に参戦。当時の最年少となる19歳でW杯初優勝も飾った。それ以来、世界の第一線で活躍し続けてきたが、五輪の個人メダルには縁がなかった。さらに、所属先は2度も廃部に。1994~95年シーズンには着地で転倒し、鎖骨を2度も折った。それでも諦めなかった。
 葛西を支え続けたのは、長野五輪で味わった悔しさだった。地元開催の五輪で日本は団体金メダルに輝いたが、直前の故障でメンバーから外れた。「4年に1度、五輪が近づくと、あの映像が流れる。悔しくて仕方ない」。札幌市内の自宅にトレーニング器具をそろえ、ランニングは一日も欠かさない。体重計には1日に何度も乗り、体調管理に努めてきた。
 迎えたソチ五輪シーズン。1月のW杯では最年長優勝も果たした。若手に劣らない活躍ぶりに、海外勢も畏敬の念を込めて「レジェンド」と呼ぶほどだ。
 それだけに、悲願の個人メダルはうれしかったに違いない。それでも涙はなかった葛西が、団体ラージヒルでは泣いた。合計1024・9点を挙げての銅メダル。日本は2回目の3人目を終えて3位に付け、最後に葛西が飛び、銅メダルを確定させた。
 万全な状態のメンバーはいなかった。膝を痛めながら出場した伊東大貴、竹内択は試合後に難病の「チャーグ・ストラウス症候群」の疑いが高いと診断されていることを告白した。だからこそ「後輩たちにメダルを取らせてあげたかった。4人で力を合わせてメダルを取れたことがうれしい」。瞳に光るものがにじんでいた理由だった。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第208回 アルベールビル五輪ショートトラック男子5000㍍リレー

2014年 2月 24日

 個人では力及ばずとも、チームでなら戦える―。ノルディックスキー複合、ジャンプ、陸上では男子400メートルリレー、競泳ならメドレーリレー……団体競技で数多くのメダルを獲得してきた日本。ショートトラックでもそうした〝伝統〟の力が発揮された。1992年アルベールビル五輪男子5000メートルリレー。この大会から正式種目となったショートトラックは男子1000メートル、男子5000メートルリレー、女子500メートル、女子3000メートルリレーの4種目が行われた。1988年カルガリー五輪では公開競技とあって選手村にも入れないという状況の中で、女子3000㍍の獅子井英子の金メダルなど、3つのメダルを獲得する活躍を見せていたニッポン。正式種目となって迎えた五輪での活躍はショートトラック界にとって死活問題でもあった。
 しかし、状況は様変わりしていた。「世界のレベルが上がっている上に、(海外勢も)目の色を変えてきている」。厳しい戦いを余儀なくされ、メダルに届かないまま、最終種目の男子5000メートルリレーを迎えた。
 悲願のメダルをかけた決勝。しかし、日本はスタートで出遅れてしまう。1周111・12㍍のリンク。カーブがきつく接触、転倒が伴う競技で、ニュージランドとし烈な3位争いを繰り広げた。残り7周で河合季信が3位に浮上すると、必死のリレーを見せる―。
 実はこのとき、日本選手団の旗手を務めた川崎努は絶不調に陥っていた。不調の22歳は決勝出場辞退を申し出たほどだったという。しかし、仲間に励まされ、気持ちを奮い立たせてリンクに立った。そんな川崎を、赤坂雄一、河合、石原が見事にフォローした。ゴール直前、最後は河合が激しくまくって3位でゴール。「アンカー勝負ができるよう力をためていた」と河合。まさに狙い通りの展開に、納得の表情が浮かんだ。もちろん、どんなにチームワークがよくとも、個の力があってこその団体。河合自身、筑波大大学院を1年間休学して競技に打ち込んできた努力があったからこその歓喜の瞬間でもあった。そして、ここから日本ショートトラック界の五輪史が始まる。まさに記念の一日となった。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第207回 スキージャンプ・八木弘和

2014年 2月 5日

 1980年レークプラシッド五輪70㍍級ジャンプの1本目。青色のジャンプスーツを着た八木の踏み切りは遅く、高度は低かった。それでも持ち前の足の強さでスキーを引きつけ、87㍍まで持っていった。2位。そして勝負の2本目。1位につけたインナウアー(オーストリア)は90㍍を飛んでいた。先行されたことで力みが生まれたか―。踏切のタイミングが悪く、思うような飛距離は出ない。83・5㍍。「あれでよく2位に残れたものだ」と父で日本代表コーチの博氏がいうほど、納得の内容とは遠かった。
 とはいえ、前回1976年インスブルック五輪で入賞者すら出せなかった日本にとってはスキー、スケートを含めて前々回の1972年札幌五輪以来のメダルであり、レークプラシッド五輪でも、この銀メダルが結果として唯一のメダルとなった。
 1959年12月生まれ、北海道小樽市出身。明大時代に全日本学生選手権を制した父は、息子が小学6年の時に指導を開始した。「こいつはものになる」。信念のもとスパルタ教育を施す父。その期待に応えるように、札幌五輪金メダルの笠谷幸生が「いつでも60%以上の力を発揮できる」と評価するまでに心身の強い選手に育っていった。
 1979年-80年のシーズンに新設されたジャンプのW杯で優勝1回、シーズン総合4位にもなった。そして五輪。成功とはいえない2回目の飛躍もあって「10位位内に入れればいいと思った」というが、銀メダルという結果に「いつも『普段着のジャンプをしろ』といわれていたので、それを心掛けました」と思わず熱いものがこぼれた。その傍らには、やはり目を潤ませて「でかした」と喜ぶ父の姿もあった。練習を始めた小学生以来、まさに親子二人三脚で獲得した銀メダルだった。
 その後は故障にも悩まされ、1984年サラエボ五輪後に引退。1989年にオーストリアにコーチ留学し、1991年にはデサントのスキー部監督に就任して、1998年長野五輪ラージヒル個人と団体で金メダルを獲得した船木和喜を育てた。その後、日本代表コーチなどを歴任し、日本ジャンプ界の発展に力を注いだ。=敬称略(昌)

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